終息の気配ないセクハラ問題、各方面で続々明るみに:批判する「資格」(2018.5.23配信分レビュー:その1)

<モラルの低下が止まりません>
福田前財務事務次官

福田前財務事務次官(写真:毎日新聞)

福田前財務事務次官のセクハラ騒動以降も、芸能界や地方自治体の首長など、セクハラを巡る問題が続出しています。

日本国内だけでも、セクハラなど多数の性的スキャンダルが短期間のうちに相次いで明らかになりました。
アイドルグループ TOKIOの山口元「メンバー」の事案をはじめ、フジテレビ『プライムニュース イブニング』の反町理キャスターの同社女性記者複数に対するセクハラ、米山隆一前新潟県知事の複数の未成年女性との交際など、各界著名人のスキャンダルが続々と報道されています。

(以上 HEADLINE 2018.5.23)

< ほぼナイ! レビュー動画(Vol.34):【 見逃し配信を視聴 (YouTube)】>

『ココがヘン!ニッポンのニュース:終息の気配ないセクハラ問題、各方面で続々明るみに:批判する「資格」

<参考:BLOGOS(ブロゴス)本省庁の女性職員4人に1人がセクハラ被害、“最強官庁”財務省がセクハラ二次被害を拡散し続ける異常

浸透していた「男社会」

続々と明らかになるセクハラ案件に加え、政治家の不適切な性的スキャンダルなど、あまりに短期間のうちに報道が連発し、受け手の我々も感覚がマヒしてくる。
それにしても、ボク(46歳)を含め、世の中の中心を占めている大体40歳以上のいわゆる「オッサン層」には、女性蔑視とか偏見とかが隅々にまでこびりついているなぁ、と感じてしまう。
そしてセクハラ問題の当事者にほとんど共通してるのは、「さぁセクハラしてやるぞ」と意気込んで意識的にやってる人はほとんどいない。
「そういうつもりじゃなかった」的なエクスキューズがほぼ全員の口から聞こえてくるし、恐らくそれは本心だ。
だからこそセクハラ問題は厄介だし、いつまでたっても減らない。
そして僕たちオッサン世代の口をついて出てくるのは、「息苦しい世の中になった。これじゃ女性と一切関われない」という半ば逆ギレのセリフだ。
それだけ世の中に長いこと、女性にガマンと理不尽を強いる空気が蔓延していた、というコトだ。

気の毒なことに、その空気に毒されたのかオッサン側のセクハラ行為を容認し、その行為を告発・非難する女性の方をバッシングする女性が現れていて、しかもそれが全然レアケースなんかじゃない。
まさにセクハラ被害者の女性は、本来は味方であるはずの女性からバッシングされ、完全な二次被害に見舞われる、というケースが、結構な量、存在する。
もちろん「ほぼナイ!」でも言ったように、セクハラ自体は日本特有の話なんかじゃない。
そもそも#MeTooのムーブメントはハリウッドから起こったのだった。
最近では、配信時に紹介したけど、アメリカのNFLチアリーダーに複数のセクハラ問題が発覚し、話題になった。

因みに、自由の国とか、人権先進国とか、ポジティブな評価をアメリカにする日本人が結構多い気がするけど、実際のアメリカ社会はめちゃくちゃ保守的だったり、権利意識が低かったりもする。
イヤ、正確に言うとそういう層がいる。しかも結構な数で。
ただ、コレはアメリカの最大の強みだと思うけど、いい意味で個人が自立しているので、自分が他人と違うことに概ね寛容だ。
多様性はアメリカ社会の最大の強みだ、とボクは思う。もちろん例外はあるけど。

日本のセクハラに話を戻すと、日本が異常といわれるのは、この本来味方である筈の同性からの二次被害だ。
思いっきり他人の価値観を押し付けられ、あろうことか批判までされる。
「派手な格好してたあんたが悪い。あんたもまんざらじゃなかったんでしょ?」だの「それくらい私の若い時は当然だったわ、ガマンが足りないんじゃないの?」だの。
コレが理解できない、と海外メディアなどで指摘されている。
これでは告発なんかとてもできない。ただでさえ、例え海外でも、告発には大変な勇気が伴う。
それなのに日本で勇気をもって告発した例えば伊藤詩織さんのような存在は、同性からも袋叩きにあう。
まさに文字通り「セカンドレイプ」だ。

「男社会」とか言ったりするけど、いろんな偏見や無知、想像力の欠如とか、いろんなものが「実に自然に」「違和感なく」世の中に浸透している。
それらが多くの女性、というか弱者に不利に働くようにできてしまっている。実に厄介だ。

許されるケース、許されないケース

短期間でいろんな性的スキャンダルが続出したけど、中には騒ぐまでもないケースもある、と思う。
政治家や役人など公的立場にある人、いわゆる公人は騒がれて当然だ。
セクハラだけじゃなく、あらゆる監視の目にさらされる。
これは日本の基準じゃなくて世界の常識ってヤツ。
なぜなら公人は、税金で食べているから。
税金を払う側は、税金を使う側を監視する、それは納税者の義務だ、とまで言い切る人もいる。
実にシンプルでわかりやすい。

ここを勘違いして芸能人とかの有名人を公人に入れちゃう人もいる。これは間違い。
芸能人は基本的に、ここで言う公人ではない。税金で食べてる存在じゃないからだ。
むしろスポーツ選手の方が、公人にあたる可能性が多い。
例えば日本代表の選手は、強化費用の名目で税金を使われていたりするから。
ただ、あくまでそれは競技の部分であって、私生活は全く関係ないから、そこは除外…とか。

その観点から考えてみると、数々の性的スキャンダルの中には、騒ぐべきものと騒ぐ必要のなかったものと、両方あった。
公人じゃないヒトの性的スキャンダルは、当事者同士で解決して下さい。

この基準から考えて、メディアが騒ぐべきだったのは、福田前財務事務次官と高橋前狛江市長のケース。
どちらも告発者のいるセクハラ案件で、公人中の公人の案件。批判は免れない。
しかもどっちもギリギリまで認めず、強引に逃げ切ろうとしたのだから、始末が悪いなんてもんじゃない。
完全に「許されないケース」だった。
いずれのケースも、被害者が勇気をもって告発したことで逃げ切れなくなった加害者側が白旗を上げた。
一件落着、と言えなくもなさそうだけど、わざわざ被害者が告発しなきゃ泣き寝入りに終わっていた可能性が高かったワケで、とても良かったなんて言える状況じゃない。
実際、同時期に多数の著名人が過去のセクハラ被害を告発したけど、どのケースも完全に時効で、文字通り泣き寝入りになっている。
今でも被害者に勇気ある告発がなければ、泣き寝入りになる可能性が極めて高い。

一方、米山前新潟県知事のケースは、セクハラでもなければ、犯罪でもなかった。
倫理的な責任を認め潔く辞任した、という事もあってか、報道の過熱ぶりは長引かなかった。
「許されるケース」だったという事だろう。

メディアが批判する「資格」

で、ようやく本題。
公人のセクハラ案件が騒がれている中で、メディア関係者の過去のセクハラ案件が実は何件も明らかにされている。
このメディアのセクハラ体質やパワハラ体質は、一般社会以上にヒドいと感じる。
テレビ番組を見ていても、未だにセクハラ的発言や番組作りが目立つし、欧米ではとても放送できないものも多い。
女性が番組の主役に座ることはなく、特に番組制作は男性の独壇場だ。
そもそも、女性が大手メディアの上層部に座るケースは未だに皆無で、それを是正しようとする動きすらない一点だけ見ても、メディアの女性蔑視の体質が全く変わってないことが分かる。
特に報道番組では、女性はほぼ例外なくアシスタント、という位置づけで、まれに女性が番組の主役であっても、裏の実権は男性スタッフが握っている。

一方で、総理や大臣などを取り囲む、いわゆる番記者は結構女性の姿が目に付くようになった。
ただし、これは女性が重要な役割を任されている、という事ではなく、むしろその逆。
欧米のメディアと違い、主要閣僚を取材する記者は記者クラブ制度にがんじがらめになってて、取材してきたコメントを番組や紙面でどう扱うかを決定する権限は一切ない。
例えば、閣僚を記者が取り囲む「ぶら下がり」の模様を見ても、それにしても経験の少なそうな若い記者の顔が目立つ。
本来、主要閣僚に直接取材できる貴重な機会であるはずの「ぶら下がり」で、大臣を追求しようとするなら、過去の言動をしっかり把握していなければ難しいはずで、そうなると各社を代表するベテラン記者が顔をそろえる筈だけど、実際は相当若そうな記者の顔が並ぶ。しかも意外に女性記者も目立つ。
大手メディア各社には、この大臣を追求する気は全くないし、各社が「ぶら下がり」を重要視していないことの証明になっているのが、今の取材現場の実情だ。
そして、これまた「男社会」の象徴のようにオッサン揃いの大臣を気持ちよく喋らせるには、若い女性が最適だろう、という意図がミエミエだ。

もちろんメディア各社はこういった意図を否定するだろうけど、と思ったら、時には正直にぶっちゃけるツワモノがたまにいたりする。
それの何が悪い、と完全に開き直ってるワケで、いやぁタチが悪い。
そんなワケでその意図を公言するかどうかはともかく、他国の大臣取材現場ではありえない風景が、今日も報道の現場では繰り広げられている。
取材現場を夜のキャバクラとかと勘違いしてるメディアがいかに多いか、お分かりだろう。
記者クラブメディアにとって、ニュースは決まったものを既定路線に沿って流せばいい話なので、実は取材は二の次、なのだ。

そんなメディアが、例え社内のセクハラが明らかになっても、素直に反省したり謝罪したり責任を取ったりすることなど、当然、ない。
公人はもちろん、いや公人以上に芸能人などの「著名な私人」は違法性がなくてもバンバン叩くけど、大手事務所所属タレントには急に腰が引けて「〇〇メンバー」と呼んでみたり、政治家も特に大物は手加減して、財務大臣がセクハラ発言を連発しても、なんと「個性」で片づけてしまったりするけど、自分たちのハナシになると更に腰が引ける。
そもそも、取り上げずに無視して、なかったことにしようとする。

そんな今のメディアにセクハラを批判する「資格」はあるのか、と疑いたくもなる。
ただ、メディアが批判しなければ、だれもセクハラがあった事実を知ることはできず、なかったことにされてしまうのだから、メディアの責任はメチャクチャ重い。
欧米では仮に(というか実際にあった話)メディアのセクハラ事案が発生すると、万が一自社が隠蔽しようとしてもその不祥事は他社が暴き出し、世の中に広くさらされ、徹底的に批判される。
そうでなければ、メディアの責任を果たせないからなんだけど、日本のメディアは責任を果たすどころか、あまりにも社内にセクハラが蔓延していて、自浄能力はおろか自社のセクハラに気付いてすらないかもしれないと、暗い気持ちにならざるを得ない。

イサ&バイリン出版 解説兼論説委員 合田治夫

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